「ふつうの人の暮らしからみえてくる中東」
菅瀬晶子
市民講座などで中東、あるいは西アジアという地域について話す機会がありますが、そのたびに、いかに多くの人びとがこの地域に紛争というイメージを持っているのか、痛感させられます。実際、ニュースで取り上げられる中東の話題は、紛争の話ばかり。昨年(2023年)10月7日、ガザ地区のイスラーム主義政党ハマースの軍事部門がイスラエル側に侵入し、開催中だった音楽祭から人質を連れ去った事件は、イスラエル軍による苛烈なガザ侵攻を引き起こしました。この原稿を書いている2024年1月の今も、停戦の兆しが見えません。この本の主人公であるウンム・アーザルとは、半月に一度くらいのペースで連絡を取り合っていますが、「いつ終わるかわからない。(遠くの村に住んでいる次女の)ディアーナとは、もう三か月も会えていない。あなたにも会いたいけれど、もうしばらく辛抱するしかないわね。いつもと同じように」と、苦笑交じりに言われました。それほどパレスチナやイスラエルの人びとは、度重なる紛争の中を生き抜いてきたのです。
ガザにも、イスラエル側にも、そこには当然私たちと同じような人びとの暮らしが存在します。わたしの専門である文化人類学とは、聞き取り調査で集めた身近で小さな事例を積み重ねて、人のいとなみの仕組みについて考える学問です。しかし、コロナ禍に加えてわたし自身ががんを患ったことで、この5年間パレスチナやイスラエルの友人たちとは会えずにいます。次の渡航の機会を待つ間、手元に集めた友人たちの物語を編みなおすことで、紛争だけではない中東の姿を提示したい。その思いがかたちになったのが、この本です。
とはいっても、本文中でもすこし述べたように、パレスチナとイスラエルに住む人びとの生活には、やはり常に紛争が影を落としています。ウンム・アーザルの場合、ユダヤ人の国であるイスラエルでアラブ人として、キリスト教徒として生きてきたことで、苦労を重ねてきました。もし彼女がユダヤ人であったならば、14歳で学校を辞めて出稼ぎに出ることはなかったでしょう。不幸な結婚生活も、もっと違うものになった可能性もあります。また、アラブ人社会の中心はムスリム(イスラーム教徒)なので、少数派のキリスト教徒の意見はあまり表面にあらわれてきません。ウンム・アーザルの置かれた状況は、日本の場合在日コリアンなど在日外国人の置かれた状況に通じます。完全に一緒ではありませんが、「少数派」と位置づけられる人びとの抱えるストレスや、だからこそ誇りを持って生きるさまは、よく似ていると私は感じています。そのほかに、イスラエルの中でも特殊な、ユダヤ人とアラブ人が唯一共存できているハイファという街で暮らせたことが、彼女の救いにもなっているのでしょう。本書には登場しませんが、彼女にはユダヤ人の友人も何人もいます。
その後のウンム・アーザルについて、最後に記しておきましょう。この本の内容は、2000年代から2010年代中盤にわたしが彼女の家で遭遇した出来事に基づいていますが、2017年にバス停で転んで怪我をしたため、彼女は修道院での仕事をやめました。その後すぐに夫が亡くなり、ひとり暮らしになりましたが、元気で暮らしています。仲よしのリディアや、子どもや孫たちがいつも様子を見に来てくれるから、さみしくはないと彼女は言います。ラナはもう二人の子どものお母さんです。ブドウの葉包みも、じょうずに作れるようになりました。サミールはロシアによる侵攻の前年にウクライナの大学を卒業して帰国し、今はハイファ市内の病院で働いています。
「ずっと働きづめの人生だったけれど、私は満足してるの。子どもたちも、孫たちも立派に育ってくれている。私がこの手で育てたのよ。料理の腕だけでね」。たくましい彼女の物語から、紛争地と呼ばれる場所で生きる人びとに思いを馳せていただければ、さいわいです。
裏表紙に描かれているオリーブの古木。 オリーブは平和の象徴です。 |
■ 菅瀬晶子 文(すがせ あきこ)
1971年、東京都新宿区出身。東京外国語大学を経て、総合研究大学院大学博士後期課程修了。2011年より、国立民族学博物館に所属。1993年以来、パレスチナ・イスラエルに関わりつづけ、おもにキリスト教徒コミュニティの文化や、彼らがイスラーム教徒と共有する聖者崇敬について研究している。著書に『イスラエルのアラブ人キリスト教徒』(渓水社)、『イスラームを知る6 新月の夜も十字架は輝くー中東のキリスト教徒』(山川出版社)などがある。
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