2021年9月6日月曜日

たくさんのふしぎ10月号『コケのすきまぐらし』 作者のことば

コケが開く新しい世界
田中美穂

 わたしの開いている古本屋には実体顕微鏡を置いていて、ときどき、コケについて尋ねに来られたお客さんに覗いてもらうことがあります。実体顕微鏡とはルーペの王様のようなもので、コケでも石でも昆虫でも、そのままの姿を数倍~数十倍に拡大して観察することができるのです。

 数種類のコケを用意して、それぞれ見てみると、葉の先がくるんとカールしているもの、透明感のあるもの、不透明で分厚いもの、茎と葉の境目あたりにびっしりと無性芽をつけたものなど、ずいぶん違いがあるのがわかります。多くの人は、コケにも葉や茎があることに、まず驚くようです。

 例えばそうやって、もうすっかり大人になった人たちが、「わあ、学校の理科の時間以来だね」などと言いながら顕微鏡を覗いてみているとき、「葉っぱの先は色素がなくて透明になっているでしょう? だから肉眼で見たとき、全体的に白っぽく見えたんですよ」と説明すると、みなさん「あ、ほんとだ!」とそこであらためて目を見開き、そしてしばらくのあいだ、顕微鏡下の世界にくぎづけになります。たぶんそれは、その人にとっての「新しい世界」が開けた瞬間なのだと思います。あんなに小さなコケに、ちゃんと茎や葉があるのはもちろん、その先っぽが透明になっているものがあるなんて、きっといままで想像したこともなかったはずですから。

 物理学者で、漱石門下の随筆家でもある寺田寅彦が、「どんなに美しくみえる造花でも、それを顕微鏡で覗いてみれば、ただの粗雑な繊維のかたまりであるのに比べて、どれほどつまらないと思われている草花でも、これを顕微鏡で覗いてみれば、どれも驚くばかりに美しい」というふうな事を書いています。

 これは手のひらにおさまるような、10倍ほどの倍率のルーペでもじゅうぶん体験できます。ベランダの植木鉢の中に生えている、一本の草花にぐっと近づいてみれば、葉や茎には半透明のうぶ毛がはえ、散りかけた小さな花の付け根には、ぴかぴかの丸い実ができているかもしれません。

 以前、うまれてはじめて地面にはいつくばってコケ観察をした友達が、顔をあげたとたん「いままで、靴の底で踏みつける地面は、なんとなく汚いものという感覚があったけど、こうしてみたら、小さな小石や砂もみんなきらきらとしていて、ぜんぜん汚いと思わなくなった」と目を輝かせて言いました。これこそ、「目線が変わると世界が変わる」ということだと思います。

 山の世界、木々の世界、猫の世界、鳥の世界、昆虫の世界。同じ地球の上で、同じ空気を吸いながら、しかしそれぞれに、まったく違った次元で生活している動物や植物が数えきれないほどたくさんいます。そして、それぞれの世界や生き方について知れば知るほど、わたしは、明るく、軽く、のびのびとした気持ちになるのです。


田中美穂
1972年岡山県倉敷市生まれ。同市内の古本屋「蟲文庫」店主。著書に『苔とあるく』『亀のひみつ』『星とくらす』(以上、WAVE出版)『ときめくコケ図鑑』(山と溪谷社)『わたしの小さな古本屋』(ちくま文庫)、共著に『本の虫の本』(創元社)、編著に『胞子文学名作選』(港の人)がある。

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